加藤明 ペルー女子バレーボール監督 国民的英雄の死にペルーは泣いている アンビリバボー
今回紹介する番組は「奇跡体験!アンビリバボー ペルーで女子バレーチームを育てた日本人加藤明と選手達アキラ一家の絆の奇跡」
放送日:2015年8月20日(木) 19時57分~20時54分 (フジテレビ系列)です。
放送内容
1964年(昭和39年)東京オリンピックで体の小さな日本人女子バレーチームは「東洋の魔女」と呼ばれ金メダルを獲得しました。
その翌1965年(昭和40年)オリンピック協会に南米(ペルー、ブラジル)からバレーボールの監督を送って欲しいとオファーが届きます。
中でも熱心だったのがペルーで、八幡製作所に所属する加藤明さんに白羽の矢が立ちます。
加藤明さんは、慶応義塾大学のバレーボール部の監督として、全日本大学選手権で慶応義塾大学を優勝させた実績を買われました。
ペルーでは極端な貧困の差が有り、一握りの白人に支配される階層社会で、
苦しい生活を喘ぐ人たちに希望を与えたい政府はバレーに目をつけたのでした。
当時のペルーは、人口2300万人で日本の1/5で、構成は
インディオ 47%
メスティソ 40%白人と混血
白人 12%
東洋系 1%
という構成でした。
わずか12%にしか過ぎない白人の支配する社会でした。
彼のミッションは、1967年(昭和42年)の 第7回南米選手権で結果を残させる事でした。
加藤明さんは、ペルーとは2年間契約で、 八幡製作所を2年間休職しペルーに向かうのでしたが・・・
みどころ
実際に加藤明さんがペルーで選手と練習すると軋轢の連続でした。
ペルーのバレーボールチームの構成は、特権階級の白人お嬢さん達で、
彼女らはプライドが高く、日本式のスパルタについていけず、次々に選手達は辞めていき
マスコミからは「非人道的」「ペルー人の敵」とまで言われてしまいます。
それでも負けず、加藤明さんは自らの足でペルーを周り、選手をスカウトしていきます。
先ず、6人の選手候補を発掘します。
ルーチャ14歳
ピランチョ 20歳
アンナ マリア16歳
ノーマ 18歳
イルガ 23歳
オルガ 15歳
練習は日本式の厳しいスパルタでしたが、彼女らはついていき、
加藤明さんは厳しく接するだけでなく、
厳しい練習の後は、自宅に招き和食を振る舞い
海外でもヒットした日本の歌、坂本九さんの「上を向いて歩こう」を教えたり
父親の様に接し、やがてペルー女子バレーボールチームは「アキラ一家」とまで呼ばれる様になりました。
特に、アンナ マリアは、1歳で父親を亡くし、加藤明さんは、食事のマナーや言葉使いなど教えてくれ、父親の様に慕っていました。
迎えた、1967年(昭和42年)日本で行われた「 第5回世界女子バレー大会」では全敗 最下位で
対日本戦では、ペルー1点:日本15点の大惨敗に終わりました。
同時に加藤明さんの八幡製作所の休職2年間も終わりますが、加藤明さんは休職の延長を求めますが、
会社からは拒否されてしまいます。
しかし、ここで奇跡が起こります。
試合終了後、ペル選手一同がコートで「上を向いて歩こう」を歌い出し、また、
ペルー選手を飛行機を見送る際、ペルー選手達は別れを惜しみ、加藤明さんに抱きつきキスでお別れをします。
翌日この写真が新聞に掲載され、
八幡製作所は、ここまでペルー選手に慕われているならば、と
加藤明さんに休職延長が許可され、加藤明さんは再びペルーへと向かうのでした。
まとめ
1967年(昭和42年)ブラジルで行われた第7回バレーボール女子南米選手権
では、ブラジルに勝利し、加藤明さんは「ペルーの英雄」となります!
1968年(昭和43年)43年メキシコ・オリンピック開催期間中
ペルー軍事クーデターが起こり選手たちに動揺が走りますが、
加藤明さんは選手を励まし、鼓舞させ、ペルーチームは、オリンピック4位を獲得します!
加藤明さんはペルー選手活躍にも関わらず、選手たちの待遇が変わらない事をペルーバレーボール協会に
訴えかけます。
加藤明さんは、ペルーのバレーボールチームにすべてを捧げるつもりで八幡製作所を退社しますが、
待っていたのは「ペルーバレーボール協会 」からの解任でした。
選手の待遇に関する発言がペルーバレーボール協会の反感を買ったのでした。
しかし、加藤明さんの元には世界中からバレーコーチへの依頼が届きブラジルへ赴きます。
それをしったペルーの民衆は、「アキラを取り戻せ」とペルーバレーボール協会に対して圧力をかけ、
ペルーバレーボール協会は、ペルー民衆の要求に屈する形で加藤明さんが呼びもとされました。
そして心機一転、加藤明さんは、ジュニアチームの育成にとりかかります。
しかし、ここで悲劇が起こります。
脇腹の違和感を覚え倒れ、病院にかかったところ、ウイルス性肝炎を発していました。
輸血が毎日必要となり、「アキラに血を!」とペルー人の献血が始まりますが
健闘虚しく、加藤明さんは、1982年(昭和57年)3月20日49歳の若さで無くなりました。
新聞は「ペルーは泣いている」「ペルーと同じだけの価値のある日本人」と国民的スターの死を嘆きました。
葬儀は、ペルーチームのホームグラウンド国立競技場で行われ
加藤明さんがペルーの選手に教えた「上を向いて歩こう」で送られました。
加藤明さんの育てた芽は育ち、1982年(昭和57年)ペルーで行われた
9回世界女子バレーボール大会では最後に加藤明さんが育てたペルージュニアチーム
が日本を破るという奇跡が起こるのでした。
それは、加藤明さんが17年かけて実現させた奇跡でした。
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