鉛筆部隊と特攻隊 アンビリバボー きむらけん ブログ 浅間温泉に学童疎開した代沢国民学校との交流の奇跡

2015年8月19日


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今回紹介する番組は「奇跡体験!アンビリバボー 鉛筆部隊 陸軍特攻隊員と学童疎開生徒の奇跡」
放送日:2015年8月13日(木)19時57分~20時54分 (フジテレビ系列)です。

放送内容

2009年山梨県とある骨董市で矢花さんは出品されていた70年前に出されたはがきに
「鉛筆部隊」という聞きなれない署名を見つけます。

気になってインターネットで検索すると”きむらけん”さんのブログに「鉛筆部隊」と云う書き込みが
浮かび上がってきました。

”きむらけん”さんは世田谷区下北沢に関する歴史に埋もれた文化を自身のブログ
「Web東京荏原都市物語資料館」で紹介しており、
そのエピソードの中で、太平洋戦争中、長野県松本市の陸軍松本飛行場に訓練の為に満州からやってきた
特攻隊員6名と世田谷区から長野県浅間温泉に学童疎開していた代沢国民学校生徒とのエピソードを紹介しています。
その学童は「鉛筆部隊」と呼ばれていました。

みどころ「鉛筆部隊」とは?

太平洋戦争末期空襲が激しくなり現在の世田谷区下北沢辺りの代沢国民学校の学童が
現在の長野県松本市の浅間温泉から郷福寺に疎開していた。

引率した柳内達雄先生は、子供達に両親に戦意高揚の為の手紙を書く様指示し、
生徒たちを「鉛筆部隊」と名付けました。

また、2人の引率の先生は、校歌を作り勇気づけます。

疎開していた郷福寺で近年披露されています。

郷福寺学寮歌作詞 柳内達雄 作曲 浜舘菊雄

「鉛筆部隊」の宿泊していた近くに、「広丘国民学校」「今井国民学校」に陸軍の若きパイロット達が
身を寄せ合います。

彼らは「陸軍松本飛行場」に特攻の訓練で着任した
陸軍誠第32飛行隊武剋隊 (ぶこくたい)15名と誠第31飛行隊武揚隊 7名でした。

その内の6名の隊員達と「鉛筆部隊」の学童たちは年齢もそう離れていない事から交流を始めます。

しかし運命の時は訪れ、先発の武剋隊に続き武揚隊も後を追います。

また、東大原小学校の学童立ちは、旅立つ前に歌を歌って「武揚隊」を見送りしました。
※歌詞は残っていませんでしたが、疎開したいた秋元佳子さんの記憶で蘇りました。


1.広い飛行場に黄昏れ迫る
  今日の飛行も無事済んで
  塵にまみれた飛行服脱げば
  かわいい皆さんのお人形

2.明日はお発ちか松本飛行場
  さあッと飛び立つ我が愛機
  かわいいみなさんの人形乗せて
  わたしゃ行きます◯◯へ

3.世界平和が来ましたならば
  いとしなつかし日の本へ
  帰りゃまっさき浅間をめがけ
  わたしゃ行きます富貴の湯へ

「富貴の湯」は特攻隊員も静養に訪れた長野の温泉で、
与謝野晶子も泊まった歴史のある温泉です。

鉛筆部隊と特攻隊
鉛筆部隊と交流のあった特攻隊について
陸軍松本飛行場に特攻訓練で着任
使用機材は三菱九九式襲撃機で、松本飛行場に着任したのは
200キロまでの爆弾しか積めない為、250キロ~500キロの爆弾を積める様改装する為でもあった。
松本飛行場は、代沢国民学校の学童が勤労奉仕で働く飛行場でもあったので学童にとって親しみもあった。

松本飛行場を発ったのは諸説あり隊武剋隊は、1945年3月20日または 3月25日に先発の9機が沖縄中飛行場向かい待機の後、26、27日に特攻出撃、残りの6機も4月3日に特攻出撃。

武揚隊 7名も台湾を経由し武剋隊続く(日程不明) 。

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※写真は昭和20年5月13日沖縄に散った五十嵐栄少尉。

「鉛筆部隊」の子供達は、「武揚隊」の隊員の残した手紙により「武剋隊」と「武揚隊」の目的は特攻だった事を知ります。

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まとめ きむらけん氏の書籍

きむらけん氏は、鉛筆部隊にまつわる書籍を出版されています。

鉛筆部隊と特攻隊―もうひとつの戦史

特攻隊と〈松本〉褶曲山脈: 鉛筆部隊の軌跡

また、きむらけん氏のブログは、鉛筆部隊と交流した特攻隊員の特定に
「きけわだつみのこえ」を参考にしています。

こちらも併せてどうぞご覧下さい。

本日は、当ブログをご覧頂きありがとうございました。

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