アンビリバボー ピーター・ノーマン 1月26日 1968年のメキシコオリンピック 表彰式 動画/写真 黒人差別[ブラックパワー・サリュート]
アンビリバボー1月26日(木)1968年のメキシコオリンピック200m陸上銀メダリスト、オーストラリア代表ピーター・ノーマンが政治的・社会的メッセージが禁止されているのを無視し、ブラック・パワー・サルートという抗議のポーズに賛同、黒人市民権運動「人権オリンピック・プロジェクト(OPHR)」のバッジを着けて表彰台に立った事から迫害され、表舞台に二度と上がることが無く生涯を閉じましたが、没後名誉回復した軌跡の話です。
ピーター・ノーマン 1968年のメキシコオリンピック200m陸上銀メダリスト
今回は、オーストラリアの映画監督 マット・ノーマンの伯父ピーター・ノーマンが主人公です。
Salute (trailer)
サンノゼ州立大学の一枚の写真と奇妙な銅像
サンノゼ州立大学(カリフォルニア州立大学サンノゼ校)には大学の卒業生ジョン・カーロスが銅メダルを獲得した1968年のメキシコオリンピックのブロンズ像(銅像)が手てられていますが、銀メダル、2位の表彰台が空いていいます。
1968年のメキシコオリンピック200m陸上競で2位に位置に立っていたのは今回のアンビリバボーの主人公・オーストラリア代表のピーター・ノーマンが立っていました。
画像出典:サンノゼ州立大学引用元:サンノゼ州立大学サンノゼ州立大学
このブロンズ像は一枚の写真が元になっています。
このモデルとなった黒人選手は、トミー・スミス(金メダル)選手とジョン・カーロス(銅メダル)選手、このポーズはブラック・パワー・サルートと呼ばれ黒人差別に反対のメッセージを意味します。
黒いグローブは抗議のシンボルです。
更にシューズを脱いでソックスで表彰台に上がっているのは黒人の貧困のアピールです。
そして、トミー・スミスの首には、黒人のプライドを象徴する黒いスカーフが巻かれ、ジョン・カーロスは白装束の白人至上主義団体KKK(クー・クラックス・クラン)の暴力により傷ついた黒人を祈念する為のロザリオを腕にまといました。
トミー・スミスが右の手袋を、ジョン・カーロスが左の手袋をつけていますが、これはジョン・カーロスが手袋を忘れた為、トミー・スミスのグローブを分け合ったのでした。
その提案をしたのが、銀メダリストで白人のピーター・ノーマンでした。
実は、キシコオリンピックでは、ピーター・ノーマンはノーマークの選手で下馬評を覆し、オリンピックの記録を破り決勝に進出、そして、決勝では、ジョン・カーロスとトミー・スミスの優勝争いに世界の注目が集まる中、ジョン・カーロスとトミー・スミスの一角を崩し2位を獲得し、銀メダリストに輝きました。
ピーター・ノーマンはその気さくな人柄からすぐにジョン・カーロスとトミー・スミスと打ち解けていたのでした。
表彰台に向かう際、ブラック・パワー・サルートを行うとジョン・カーロスとトミー・スミスから胸の内を明かされピーター・ノーマンは「君たちを信じる、人権運動を支持の表明の為、そのバッジ(人権オリンピック・プロジェクト・OPHR)を分けてくれないか?」と驚きの提案をしてきました。
ジョン・カーロスとトミー・スミスは驚きました.
支持してくれるだけで嬉しかったのにまさかの逆提案でした。
そして、他の選手が着けていたOPHRバッジを胸に着けピーター・ノーマンは、ジョン・カーロスとトミー・スミスと共に表彰台に向かったのでした!
そして表彰式では、ピーター・ノーマンはブラック・パワー・サルートのポーズこそ取らなかったものの二人の選手と同じ、黒人市民権運動「人権オリンピック・プロジェクト(OPHR)」のバッジを着けて表彰台に上がって静かにたたずんでいました。
そして、表彰式が始まり星条旗が掲げられ、国歌が流れると、2人は下を向き右腕を高く掲げ抗議の為、ブラック・パワー・サルートのポーズを取りました。
これには会場内は、大ブーイングが沸き起こり、さらに同士で有るはずのアメリカの白人選手から人種差別のヤジまで飛ぶ始末でした。
国際オリンピック委員会(IOC)が下した処罰
3人の行動が「非政治的で国際な場としてのオリンピック」の精神に反すると問題となり
トミー・スミス選手とジョン・カーロス選手は、アメリカ・ナショナルチームから除名、オリンピック村から追放するを命令を受け、オリンピック代表からも除名・追放され今後のオリンピックへの出場を拒否されました。
オーストラリアのピーター・ノーマンに関しては、次の1972年のミュンヘン・オリンピックで選抜で3位となり、出場資格を獲得していながら、ブラックリストに名を連ねていた事を理由に圧力がかかり出場の望みが潰えてしまいました。
その結果公務員として、スポーツやレクリエーションなど(体育の教師や肉屋のアルバイトの説も有り)で生計を立てるというオリンピック銀メダリストとしての華々しさとは無縁の生活を送る事になりました。
実はオーストラリアは人種差別が酷く、悪名高き南アフリカのアパルトヘイト・人種隔離政策はオーストラリアの白豪主義(または白濠主義、はくごうしゅぎ)が元になっているのです。
不幸にも、1985年にアキレス腱を痛めた事から足が壊疽し、切断を迫られる程まで症状が悪化しました。
精神的にも、鬱とアルコール使用障害に苦しんだ挙句、2006年10月3日にこの世を去りました。
時代は流れ黒人の地位も向上し、サンノゼ州立大学(カリフォルニア州立大学サンノゼ校)では卒業生であるスミスとカーロスのメキシコオリンピックでの抗議行動が賞賛された結果、二人の銅像(高さ約20フィート)が偉業の象徴として建立されたのでした。
一方、オーストラリアでは不遇の人生を送ったピーター・ノーマンでしたが、アメリカではイベントに招待されるなどオリンピック銀メダル獲得選手としての名誉は回復していました。
そして、ピーター・ノーマンの葬式の際は、棺を二人が担ぎピーター・ノーマンを弔いました。
本国でもオーストラリアでも名誉回復
そして、2006年8月20日、キャンベラ選出のアンドリュー・リー労働党下院議員が、「ノーマンへの死後謝罪」動議を議会に提出しました。
その理由をABCニュースでこう語りました。
「ノーマンは200m陸上で20.06秒の記録で2位を獲得しており、その記録は未だにオーストラリア記録として破られていないだけでなく、2000年のシドニー・オリンピックでの200m陸上金メダリストのタイムよりも優れている。
ノーマンの行動はたった一人の人間でも世の中を変えることを証明した。
1972年のオリンピックでも、ノーマンは黒人の人権の為に抗議した事によりオーストラリアでは厄介者として扱われ忘れられた存在のままだった。
当時のオーストラリアのとった仕打ちは誇れるものではない。
ピーター・ノーマンが正しいことを示した事を、私達は誇りに思わなければならない。
そして、2012年、オーストラリア政府はピーター・ノーマンに対し正式な謝罪がなされ死後ピーター・ノーマンの行動が人間として正しかった事が証明されたのでした。
まとめ
本日は最後までご覧いただきありがとうございました。
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