アンビリバボー 遺影と結婚した女医 梅木信子 神戸の梅ちゃん先生は96歳の現役 6月2日 画像
神戸で96歳の「梅ちゃん先生」と親しまれている現役の女医梅木信子さんは、太平洋戦争で婚約者梅木靖之さんを結婚式の1ヶ月前に亡くし遺影と結婚しましたが、夫の父親との約束で医者の免許を取得しました。
アンビリバボー(2016年6月2日放送)では、「遺影と結婚した女性の奇跡 70年間の愛を貫く 太平洋戦争に引き裂かれながらも、純粋な愛を貫いた奇跡の物語」としてリアル梅ちゃん先生の半生が紹介されます。
夫・梅木靖之さんとの馴れ初め
信子さんと梅木靖之(やすゆき)さんの出会いは信子さんが18歳(昭和13年)兄のお嫁さんの紹介でした。
兄のお嫁さんの弟が梅木靖之さんだったのです。
信子さんと梅木靖之さんは意気投合しました。
時間が許す限り、デートで訪れた淡路島や垂水海岸が想い出の地となりました。
その当時寄り添って歩くこともはばかる時代で、障害物を避けるため手を引き寄せられるだけでも体中に電流が流れるほどときめいたそうです。
梅木靖之さんの出征
しかし、時代は日中戦争まっただ中で、太平洋戦争勃発の昭和16年、商船学校(現・神戸大学海事科学部)出身の梅木靖之さんは召集令状、所謂赤紙により海軍に出征が決まりました。
そして、戦地赴任の直前昭和17年、写真館で二人だけのツーショットの写真を撮影します。
これが最初で最後の二人の写真となってしまうのでした。
戦地からプロポーズの手紙が届き、反対する信子さんの父親を押し切り結婚式も昭和18年に決まりました。
梅木靖之さんが乗る輸送船が魚雷攻撃により沈没
昭和18年、南太平洋に向かう梅木靖之さんが乗る輸送船が魚雷攻撃により沈没して、梅木靖之さんは亡くなりました。
奇しくも結婚式の8日前でした。
※1か月前との記録もあります
遺影と結婚
結婚式直前、悲しい知らせが、信子さんに届きました。
しかし、信子さんは諦めず、翌年、昭和19年1月19日、出征前に写したたった1枚の写真の遺影と一緒に挙式を行ったのでした。
海軍葬
梅木靖之さんをはじめとした戦没者の海軍葬(海軍が行う葬式)で、参列者の何気ない会話が不思議と信子さんの耳に入りました。
「戦死した遺族には優先的に医学専門学校の受験枠があるそうですよ」
その時は、聞き流していた会話でしたが、後に信子さんの人生を大きく代える会話となったのです。
梅木靖之さんの父の遺言
梅木靖之さんの父が亡くなる前に、信子さんに語った言葉が有りました。
「(靖之さんに)もしものことがあったら、戦没者恩典を利用して医師になって、国のために働いて欲しい」
信子さんは、海軍葬で参列者が語っていた言葉を思い出しました。
「戦死した遺族(妻)には優先的に学費免除の医専門学校の受験枠がある」
海軍に軍医として入隊し、自分も散って靖国で夫・梅木靖之さんと再会する事を決意したのでした。
見事医大に合格し医師免許を取得
裁判の末、遺族である事を証明し、医大に進める軍人遺族特権(優先入学制度)により25歳で、東京女子医専(現在・東京女子医科大学)に合格。
勉強熱心で現・東大などの授業にも聴講するなどで、32際にして医師免許を取得し、やがて昭和35年、東京都の郊外日野市に開業するまでになりました。
また、梅木の性から「梅ちゃん先生」と呼ばれ親しまれるまでになり、親子3代で梅ちゃん先生を頼る患者さんが居るほどです。
皮肉にも医師になる前に戦争は終結しましたが、そのお陰で、現在も非常勤ではあるものの医者を続ける事ができるのでした。
信子さんの現在
信子さんは、籍も梅木性のままで再婚せず独身を貫いています。
89歳で日野の病院を閉院させ、余生をご主人との想い出の地で過ごしたいとの想いで、神戸市垂水区のマンションに90歳の時引っ越しました。
神戸が想い出の地であると共に、神戸のマンションからは、夫・梅木靖之さんと信子さんの墓を準備しており、淡路島が良く見えるからです。
出征前に信子さんに残した歌がお墓に刻まれています。
「ときわ木の 変わることなき みどりこそ 出で行くわれの 心とぞ知れ
(山の緑が色あせないように、出征する私があなたを想う気持ちはあせない)」
梅ちゃん先生曰く、1年で夫の元へ行けるだろうと思っていたらもう6年目になっているそうです。
現在は非常勤の医師として月、数回、週1、2回、「カワイ検診クリニック」に勤務しており、時には県外にも診断に出掛けているそうです。
まとめ 戦死後を見据えて信子さんを守る為のプロポーズ?
梅木靖之さんは大学を卒業しているので、「士官採用試験」に合格すれば士官の少尉~中尉で任官されます。
(同い年でも、高等小学校(現在の中学校位)や中学(現在の高校位)を卒業してスグ入隊して6年近く経っても2階級位下の下士官がやっとです)
梅木靖之さんは実際少尉として任官し戦地に赴いた様です。
梅木靖之さんが最期に赴いたのは南太平洋なので1943年は、劣勢だったアメリカ軍が物量に物を言わせ反攻作戦に出て激戦となり攻守が逆転し、日本軍が劣勢に立ち始めた頃です。
もし戦死しても、結婚していれば当時の海軍には、恩給制度が有り、遺族に年金が払われました。
階級により、高ければ高いほど年金額は比例して高く支払われます。
梅木靖之さんは少尉でしたので、贅沢をしないかぎり遺族は年金だけでもギリギリにの生活していくだけの額が受け取れるはずです。
それに海軍では遺族に苦労をかけないよう戦死した場合、階級を1~2階級進級させる、所謂特進の制度を設けていました。
ですので戦地からプロポーズしたのは自分が英霊になっても信子さんを養ってあげたいという気持ちがあったのではないでしょうか?
そして、信子さんは看護婦を目指していて、受験するも失敗していた事を思いだし、遺族は優先的に医大に進める軍人遺族特権(優先入学制度)を知って、医学の道へ再チャレンジして欲しいとの想いもあったのではないでしょうか?
信子さんが今でも現役で医者として生きているのも、医師としての知識でオーガニックな食べ物に拘っているのと、梅木靖之さんが自分の命を分けてくれているからなのかもしれませんね。
※マンションのベランダではサンチュやバジル、小松菜、ほうれん草などの家庭菜園を行っていて、頭の体操の為、毎日自炊やエクササイズとしての体操など健康に拘っていらっしゃいます。
梅木信子奨学金
信子さんは開業する程、医師としての報酬も有りましたが、亡き夫に養われているという想いを大切にし、夫の遺産とも言える遺族年金だけで生活し、医師としての報酬は全て夫・梅木靖之さんの母校「神戸大学海事科学部」に奨学金制度を設立し、靖之さんの後進の育成を見届けています。
「梅木信子奨学金 (神戸大学基金)」海事科学研究科学生係 (TEL: 078-431-6230)
梅木信子著 書籍
梅ちゃん先生として2冊の書籍を出版されています。
「ひとりは安らぎ感謝のとき」梅ちゃん先生の半生と医師としての健康や日常の中にある幸せなどをユニークに綴っています。
※本 人文・思想・社会 週間ランキングでは9位です(2016年6月2日時点9
「なでしこと君に呼ばれて」梅ちゃん先生の半生を綴っています。
本日は、当ブログをご覧頂き有難うございました。
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